「左翼の陣 立て直せ!」
「この正面戦では、数の多い敵陣が有利です!」
「波状攻撃もあとどれほど耐え切れるか」
「せめて指揮所を川向こうに移しますか?!」

バトゥ「バカを言うな。」

1235年のクリルタイで決定され、
1237年に始まったヨーロッパ遠征は、
1241年、当時欧州最強を謳われたハンガリー騎兵軍との対決で、
クライマックスを迎えていた。
3月12日 バトゥ率いるモンゴル本隊、ハンガリー軍と遭遇
3月15日 モンゴル本隊、ドナウ河畔、ペストの前で停止
3月31日 シェイバン隊が本隊に合流。
       モンゴル軍は偽装撤退を始め、ハンガリー軍が追う
4月8日  両軍、サヨ河を挟んで布陣
一辺約1km。


モンゴル軍はもっと上まで
展開しています。


ハンガリー軍は攻撃をおそれて
まわりを荷物やテントで囲み、
密集隊形を取っていた。
1241年 4月10日
バトゥは10万のハンガリー軍を、その大軍が展開するには余りに狭いモヒ平原におびき寄せていた。
夜の明けきらぬうち、バトゥは唯一の渡河通路である石橋の攻略にかかる。
石橋は狭く、数人づつしか渡れなかった。
バトゥは「雷鳴の轟きと炎のきらめきをともなった」7台の投石器(カタパルト)を投入、
その弾幕放火によりハンガリー軍を後退させ、石橋を確保。
約4万の全軍を対岸に渡らせ、ハンガリー軍と対峙した。
しかし、ハンガリー軍の背後に回り込むべく渡河地点を探して北上したスブタイ軍は、
浅瀬を見つけられず、戦場に遅れてしまう。
繰り返される波状攻撃に、数に劣るバトゥ軍は押され始め、壊滅は時間の問題かと思われた。
次第に絶望的な状況に追い込まれつつも、ハンガリー軍の突撃を砲撃と弓の一斉射で押し戻し、
バトゥは陣を堅持し続けた。

バ「まだだ・・・」「まだまだ・・・・」

「バトゥ・ハン! 敵陣後方に砂塵確認っ・・・」